もし私が、名前も覚えられず、「雑人」と呼ばれ、必要とされない存在として扱われたら、私の心はどうなるでしょうか?
おそらく、深い悲しみと孤独感に包まれるでしょう。
名前は、自分自身のアイデンティティを表すものです。それが奪われるということは、自分が何者なのか分からなくなるということと同じです。
そして、「雑人」というレッテルは、自分が社会から必要とされていない、価値のない存在であることを意味します。
そのような扱いを受け続ければ、自己肯定感は低下し、生きる希望を失ってしまうかもしれません。
しかし、私はただ悲しみに浸っているわけにはいきません。
自分自身を理解し、自分の価値を見出すために努力しなければなりません。
そして、いつか社会から認められる存在になるために、できることを探し続けなければなりません。
「雑草」という言葉は、人間の都合で邪魔者扱いされた植物たちに対する蔑称です。
しかし、彼らは何千年も前から地球上で生き続けてきた生命力あふれる存在です。
二酸化炭素を吸い、酸素を出し、大気を循環させる重要な役割を担っています。
また、食用や薬効など、私たちの生活に欠かせない存在でもあります。
太古の昔から、人類は野の草花に助けられて生きてきました。
そして、今日の私たちが存在するのも、彼らのおかげなのです。
弥勒の世とは、仏教における理想的な社会です。
そこでは、人間だけでなく、草木や微生物までもが喜び、共存する世界が実現されています。
地域活動支援センター開設を通して、グリーン事業を構築するにあたり、「雑草」という言葉について改めて考える機会を与えられました。
人間の都合で邪魔者扱いされるときには「雑草」となる草木花。
しかし、本来は私たちの生活に欠かせない存在であり、自然環境を守る重要な役割を担っています。
ベトナム戦争中に使用された枯葉剤は、戦後に除草剤として商品化されました。
「雑草は邪魔者」という考え方が広まり、私たちは日本の在来種の草木花の名前や役割を忘れてしまいました。
先祖が残してくれた餅や七草、風呂などに旬の草木花を使う文化も薄れつつあります。
今一度、日本古来からの自然に寄り添う文化風習を取り戻す必要があります。
なぜなら、それが日本の気候風土に最良の生活様式であり、日本人のDNAに必要不可欠なものだからです。
それは、弥勒の世を迎える準備であり、ありし日の状態に戻るため、あえて歩んだ茨の道から抜けた時代が始まったことを意味します。
一度忘れたものを取り戻し、私たちは新たな精神性を会得することができるでしょう。
光は闇をさまようことで、初めてその存在を知ることができます。
私たちは、苦難や試練を乗り越えることで、より強く、より深い知恵を持つことができるのです。
名前も知れず、「雑人」と呼ばれようとも、私は希望を持ち続けます。
いつか、自分の価値を認められ、社会に貢献できる存在になることを信じて。
そして、人間と自然が共存する、より良い未来を実現するために努力していきます。